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ヒロセ ユキコ
本学企画室(広報)主事,中小企業診断士
vol.8 2007年02月06日
インド研修報告
本学企画室(広報)でお世話になっている広瀬と申します。この度、MOTチャンネルに小文を掲載させていただくことになりました。
この文章は、(社)中小企業診断協会 東京支部 国際部の発行する「インド研修報告書」に発表したものです。中小企業診断協会 東京支部 国際部では、1999年のタイ訪問を皮切りに、ベトナム、インドネシアなど主に振興発展国を中心に現地のビジネスと暮らしを視察する海外研修を行ってきました。
第8回目となるインド研修は、9月10日(日)から16日(土)の日程で、36人が参加し、バンガロール、デリー、アグラ、ジャイプールなどを訪れました。IT産業のメッカと言われるバンガロールでは、アメリカに本部を置く世界最大の独立系投資運用グループ、フィデリティの現地法人であるフィデリティ・インディアを見学後、トヨタ・インディアを訪問、デリーでは、自動車部品メーカーであるデンソー・インディアを視察しました。後半のアグラ、ジャイプールでは観光メニューに移り、世界遺産・タージマハール、アーグラ城、ジャイプール宮殿などの歴史的遺産を見学し、インド悠久の歴史と今に生きる人々の営みの一端に触れることができました。
本研修ツアーでは、参加者全員に報告書の執筆が義務づけられ、出発前にテーマが割り当てられます。今回、MOTチャンネルに転載させていただく「アーグラ城とムガール朝建築」は、あいにく技術経営に直接関係するものではありませんが、忙しい毎日の息抜きにでもご拝読いただければ幸いです。
アーグラ城とムガール朝建築
広瀬 由紀子
第5日目、9月14日(木)の朝はアーグラで迎えた。アーグラはインドの京都とも言うべき都で、ガンジス河最大の支流ジャムナ河沿いにあり、古代から交通の要所として発達した。世界遺産のタージマハール廟、アーグラ城があることで知られている。約180km北にデリー、220km西にジャイプールが位置しており、周辺地域における政治、経済、文化の中心地である。本稿では、アーグラ城を中心に、ムガール朝建築について述べてみたい。
1. アーグラ城
ムガール帝国(1526〜1857)は、アーグラとデリーを首都としたが、その最盛期はアーグラが舞台となっている。第3代皇帝アクバル(在位1556〜1605、以下同じ)が首都として都市づくりをしたことから、アーグラはアクバラーバード(アクバルの居城)と呼ばれたこともある。
アーグラ城は、ムガール朝の城郭で最も重要なもので、アクバル帝が1565〜73年の間に造営し、後に第4代ジャハーンギール帝(1605〜27)、第5代シャー・ジャハーン帝(1628〜58)に引き継がれ、造築、改修がなされた。1世紀後、第6代アウラングゼーブ帝(1658〜1707)が外郭の城壁をつくり、二重の城壁の間を濠とする。 背後の東面は 2.5kmにわたって深いジャムナ河に面しているので、比類のない堅固な城塞であった。城壁や城門が全て赤砂岩で建てられているので「レッド・フォート」とも呼ばれる。
かつて城内は宮殿ばかりでなく、バザール街と城内町があり、大モスクが1つと小さなモスクが2つもある 「都市」 であった。門は南と西の 2ヵ所にあり、デリー門とよばれる壮麗な西門はバザールへと通じ、南のアマル・シング門は宮廷地区へと通じた。
現在、アクバル帝の足跡はジャハーンギール殿を除いては、ほとんど残っていない。彼の孫にあたるシャー・ジャハ−ン帝が、アクバル時代の建物の多くを取り壊し、改築したためである。木造だった公謁殿は白大理石による三廊式の列柱ホールとなり、広い前庭を囲む柱廊も石で置き換えられた。 この前庭は宮廷地区と、デリー門からの市街と大モスクとを結ぶ広場でもあり、皇帝はここで市民の訴えを聞き、裁きを下したと言われている。 高さ 7mの花弁形の大アーチが 9連もつづくファサードは圧巻であり、中央の奥には一段高い玉座が設けられている。
これらの建築の中で特筆すべきものをあげれば、ジャハーンギール殿と「真珠モスク」であろう。前者は、アクバル帝がヒンズーとイスラムの融合を目指したもので、後のファテプル・シークリー(後述)に繋がるものと言われる。後者は、白大理石で造られた大モスクで、その清楚な美しさはムガール朝建築の珠玉とされているが、残念ながら20年以上公開されていない。
2. ムガール朝建築
ムガール時代の建築は、今日よく知られているものが多く、それぞれ高度な技術を反映している。総称して、ムガール朝建築と呼ばれているが、第3代アクバル帝のときに大発展した。アクバル帝の諸宗教融和の政策を反映して、イスラム建築とインド土着の伝統技芸とを技術的にも美学的にも統合する試みであったとされる。当時の建築文化を最も良く残すものは、今回のツアーでは行かれなかったが、アーグラの南西35kmに造営された都市ファテプル・シークリーであると言われ、付属の寺院ジャーミー・マスジットをはじめキャラバン・サライ(隊商宿)、ミナレットなどイスラム系の諸建築が揃っている。ジャーミー・マスジットの内部や、五層閣に見られる石を木のように扱った軸組み的な架構法は、ヒンズー教やジャイナ教の建築による、長い工夫と技術の蓄積があってはじめて実現されたものである。つまり、インドにとってイスラムは、外来の進んだ文明ではあったが、それに匹敵する伝統文明を既に持っていたからこそ、イスラム支配の時代にも伝統宗教や芸術が生き延びることができた。インド亜大陸のほとんどを制し、融合政策により帝国の礎を築いたアクバルは、文化の擁護者でもあったと言える。
17世紀初めには、イタリアのフィレンツェ系の工芸家が来て、色石の象嵌技術を伝え、これによりアクバル帝墓廟の一部には、美石の貼り付け装飾のほかに、象嵌が併用されているが、その傾向が次代になると著しく発達普及した。第5代シャー・ジャハーン帝の治世は、ムガール朝建築の黄金時代と言われ、帝はアーグラ城では、アクバル帝等の建てた、赤砂岩造の諸殿に対して、白大理石に象嵌した華やかな諸建築を加えた。「真珠モスク」も、その名の通り美しい宮廷寺院であり、白大理石の上品で清楚な表現がこの時代の好みだった。出入口などに多葉形アーチが駆使され、ドーム屋根に葱(そう)花形が普及したのもこの頃からである。
この時代はムガール朝の全盛期だと言われるが、地税の取立て額が急増し、ムガール軍幹部の生活難、兵士への給与不払いが表面化したのも、この時期であった。1630〜53にわたって愛妃のために造営したタージマハール廟は、インド近世建築を代表する美建築と称えられているが、それに要した莫大な費用は国家財政を逼迫させ、帝は王子アウラングゼーブによって、アーグラ城に幽閉されて最晩年を過ごすことになる。第6代アウラングゼーブ帝以降になると、国力は低下し、見るべき建築物もほとんど影をひそめてしまう。
参考文献:神谷武夫著「インド建築案内」1996年9月20日初版 TOTO出版
世界大百科事典 全29巻 1981年4月20日初版 平凡社
アジア歴史事典 全10巻 1959年9月30日初版 平凡社 他
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